アンネ・フランクはどんな人?

ユダヤ人のアンネ・フランクは1942年、ドイツ占領下のオランダでナチスから逃れるため身を隠しますが、2年後に見つかり、1945年にベルゲン・ベルセン強制収容所で亡くなりました。

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幼い頃のアンネ

アンネ・フランクは1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれました。アンネには3歳年上の姉、マルゴットがいました。当時のドイツは景気が悪く、人々は貧しい生活をしていました。その頃、アドルフ・ヒトラーと彼の政党はその勢力をどんどん伸ばしていました。ヒトラーはユダヤ人を憎んでおり、ドイツが抱える問題の責任をユダヤ人になすり付けました。ヒトラーはドイツに広まっていた反ユダヤ感情を利用したのです。  この反ユダヤ感情と、そしてドイツの不景気が、アンネの両親オットーとエーディトにアムステルダム移住を決心させました。オットーはアムステルダムで、ジャム作りに使うペクチンの取引会社を設立します。

ナチス・ドイツのオランダ侵攻

アンネはオランダでの生活にすぐに馴染みました。オランダ語を覚え、友達を作り、近所にあるオランダの学校に通いました。アンネの父は会社で必死に働きましたが、生活に十分なお金を稼ぐのは簡単ではありませんでした。  そのため彼はイギリスでも起業しようとしましたが、これはうまく行きませんでした。代わりに、ペクチンだけでなく香辛料の販売も行うようにして収入を増やしました。

1939年9月1日、アンネが10歳の時、ナチス・ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。それから間もなく、1940年5月10日にナチス軍はオランダにも侵攻します。その5日後オランダ軍は降伏しました。その後ドイツ軍は徐々に、ユダヤ人の生活を困難にする法律や条例を導入していきました。例えばユダヤ人は公園、映画館、商店などへの出入りが禁止されました。これらの規則により、アンネが行かれる場所はどんどん減っていきました。ユダヤ人が会社を持つことも禁止されたため、アンネの父も会社を失ってしまいました。そしてアンネを始め全てのユダヤ人の子供達は、ユダヤ人の学校に行かなければならなくなりました。

隠れ家への引っ越し

ナチスによるユダヤ人迫害は更に進んでいきます。ユダヤ人は「ユダヤの星」を着けることが義務付けられ、ユダヤ人はみなオランダから出て行かなければいけない、という噂が流れました。1942年7月5日、マルゴットにナチス・ドイツの労働キャンプへの召集令状が届きました。両親はこの召集が労働のためだとは信じず、翌日から隠れることにしました。  隠れ家に移動し、潜伏するのです。  

プリンセン運河263番地にあったオットーの会社の後ろの離れ家に、オットーは1942年の春から隠れ家の用意をし始めていました。会社の社員たちが彼を助けてくれました。隠れ家にアンナ達が引っ越してすぐ、更に4人が加わりました。隠れ家はとても小さく、アンネは物音を立てないようにしなければならず、そしていつも怯えていました。 

日記を書く

アンネはまだ隠れ家へ移動する前、13歳の誕生日に、プレゼントとして日記をもらいました。隠れ家で生活した2年の間、アンネは隠れ家での出来事、そしてアンネが感じたことや考えたことを日記に書きました。それだけではなく短い物語や小説を書き始めたり、「お気に入りの文の本」に自分が読んだ本から抜き出した一節を書いたりしました。書くことはアンネにとって大きな慰めでした。 

ある日、イギリスに亡命していたオランダ政府の教育大臣が、ラジオを通じてオランダの人々に戦時中の日記や書類を保存しておくよう呼びかけました。それを聞いたアンネは日記を「後ろの家」というタイトルの一つの物語としてまとめることを思いつきました。 

隠れ家が発見される 

アンネは日記の清書を始めました。しかしその作業が終了する前、1944年8月4日にアンネと隠れ家の住人は警察に発見され、逮捕されました。警察は支援者二人も逮捕しました。なぜ警察に隠れ家の存在が知られたのか、現在もはっきりわかっていません。

警察の襲撃にも関わらず、アンネの日記はその一部が保存されました。ナチスの命令によって隠れ家のものが全て持ち出される前に、他の二人の支援者が日記を隠したのです。 

アウシュヴィッツへ連行される 

隠れ家の住人たちはナチスによって親衛隊保安部、ドイツの治安警察、アムステルダムの刑務所、ヴェステルボルク通過収容所を経由して、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制絶滅収容所へと輸送されました。この列車の旅は3日間続き、その間アンネを含む約1000人は家畜用の車両に詰め込まれて過ごしました。水も食料もほとんど与えられず、小さな桶がトイレの代わりにあるだけでした。 

アウシュヴィッツに到着すると、ナチスの医師が重労働が出来る者と出来ない者の選別をしました。その後すぐ、アンネと同じ列車で送られてきた人のうち約350人がガス室に送られ、殺害されました。アンネは母と姉と共に女子労働施設に送られました。オットーは男子収容施設に送られました。 

ベルゲン・ベルセンでの死

1944年11月初め、アンネは再び移送されます。今度は姉と共にベルゲン・ベルセン強制収容所へと連行されました。両親はアウシュヴィッツに残されました。ベルゲン・ベルセンの環境も劣悪でした。食料はほとんど与えられず、非常に寒く、アンネもマルゴットも発疹チフスにかかってしまいました。二人ともこれが元で1945年2月に亡くなります。まずマルゴットが、その後まもなくアンネが息を引き取りました。 

隠れ家の住人達の中で、アンネの父、オットーだけが戦争を生き延びました。オットーはロシア軍によりアウシュヴィッツから解放されました。オランダへ戻る長い旅の途中、妻のエーディトが亡くなったことを聞かされます。そしてオランダに戻ってから、アンネとマルゴットももう生きていないことを知らされます。 

アンネの日記が世界中で読まれる

無事保管されていたアンネの日記はオットーに深い感銘を与えます。日記には、アンネは作家かジャーナリストを志望していること、そして隠れ家での生活についての話を出版するつもりであることが書かれていました。オットーの友人たちは彼に日記の出版を勧め、1947年6月25日、「後ろの家」3000部が出版されました。 

日記の出版はそこで終わりませんでした。アンネの日記はおよそ70の言語に翻訳され、劇として、そして映画として上演もされたのです。世界中の人々がアンネの日記を読み、そして1960年には隠れ家が「アンネ・フランクの家」という博物館になりました。オットーは1980年に亡くなるまで、アンネ・フランク財団と博物館に深く関わり続けました。オットーは日記の読者が不寛容・人種差別・反ユダヤ主義は危険であることに気が付くことを望んでいます。